2017年6月27日火曜日

聖霊降臨後第3主日/平和に関する講演会

25日は聖霊降臨後第3主日でした。

祭壇のお花です。


<お知らせ>
☆東神地区合同礼拝
 2017年7月17日(月・祝)午前10時半 横浜聖アンデレ教会
 初めての東神地区五教会(横ア、山手、横ク、川崎、林間)の合同礼拝です。
 幹事教会へ参加人数を報告するので、参列される方はホワイトボードにある用紙にご記名をお願いします。
☆神奈川県サマーキャンプ
 2017年8月15日(火)~17日(木)足柄ふれあいの村
 締切7月5日(水)詳しくは申込書をご覧ください。
☆清里ファミリーキャンプ
 2017年7月27日(木)~29日(土)清泉寮
 詳しくは申込書をご覧ください。


次主日
聖霊降臨後第4主日(特定8)
7月2日(日)7:00,10:30 主日聖餐式
≪聖歌 348,409,387,266,341≫
イザ2:10-17 ロマ6:3-11 マタ10:34-42
・キリスト教勉強会
・聖歌隊



この日は愛餐会の後、西原廉太司祭(日本聖公会中部教区司祭・学校法人立教学院副院長)を講師にお迎えして、「キリスト者にとって平和とは~寄せ書きのある旗から学ぶ平和~」と題する講演会が行われました。


内容は、西原司祭のもとへアメリカの見知らぬ人から届いた1通のメールがもたらした奇跡的なお話でした。見慣れないメールは中身も見ずに捨てられることもあるのですが、その時は何か気になって、西原司祭はメールを開かれたそうです。

メールの差出人はウィスコンシン州に住むスティーヴン・A・カーという牧師さんで、その方の隣家に住むアール・ツヴィッキーさんは、2009年9月1日に85歳で天に召されましたが、彼が18歳の青年だったころ、米国陸軍の軍曹として第二次世界大戦下の太平洋戦域に赴いていたのだそうです。
ツヴィッキーさんは、自分の部下の攻撃によって倒された日本兵のポケットに入っていた旗(寄せ書きが書かれているもので、米国では「幸運の旗」と呼ばれている)を戦利品として持ち帰りましたが、いつまでもその旗のことは頭から離れず、ついに亡くなる一年程前に、「その旗にはいったい何が書かれているのか、その意味を知りたい」とカー牧師に相談をされたそうです。
カー牧師は旗に書かれている文字をウィスコンシン大学の教授に翻訳してもらったところ、旗の持ち主は立教大学の現役学生で「ワタナベ」という姓であり、剣道部と山岳部のメンバーであることが分かりました。
カー牧師はツヴィッキーさんが亡くなる数日前に、この旗に書かれていたことや、そこに込められた日本兵の家族や友人たちの思いを彼に伝えました。そして今度はツヴィッキーさんに、この旗を手にしたときのことを聴かせてほしいと願いました。するとツヴィッキーさんは、終戦以来決して語ろうとはしなかったその日の出来事について、カー牧師に打ち明けてくれたそうです。
ツヴィッキーさんが亡くなり、残された夫人からこの旗を譲られたカー牧師は、自分の使命はこの旗を「ワタナベ」のご遺族に返すことだと思いました。そして、旗の翻訳をしてくれた教授から「“立教大学”とあるのは、キリスト教で聖公会の大学なので、“Anglican”(聖公会という意味)と“Rikkyo”でネット検索をしてみたら」との助言を受け、調べてみるとCUAC(世界聖公会大学連合)のサイトに行き当たり、そこの立教の頁に西原司祭の名前とメールアドレスが記されていたのでした。
さっそく西原司祭はカー牧師と連絡を取られると、旗の写真をメールで送っていただくようお願いをされました。送られてきた写真を見ると、持ち主の名前は書かれていなかったものの、ご両親、お姉さん、妹さんのお名前があり、ワタナベという姓が分かったことから、立教大学の職員の方の執念にも近い探索の結果、すべてが判明したそうです。
旗の持ち主のお名前は「渡邊太平」さんといい、学徒出陣で戦地に赴き、1945年4月にフィリピン・セブ島で戦死した経済学部の学生さんでした。
さらに奇跡としか言うほかない形で太平さんの姪御さんが判明し、しかもその姪御さんは、西原司祭が属する立教大学文学部キリスト教学科の卒業生でした。姪御さんのお母さん(太平さんのお姉さん)は2009年12月に他界されていましたが、亡くなる直前まで愛する弟さんのことを口にされていたそうです。姪御さんは、お母さんが大切にされていた戦地から送られてきた太平さんの手紙や写真のほか、召集のために未提出であった太平さんの論文も大切に保存されていました。
こうして、太平さんの旗は無事ご遺族のもとに届きましたが、姪御さんは、太平さんのような学生さんがおられたことがみなさんの記憶にとどめられるようにと、太平さんの遺品を立教大学に寄贈されました。

2010年10月、ご遺族とカー牧師をお招きして立教大学で「祈念礼拝・平和を祈る夕べが」行われました。
カー牧師は言われました。
「無名の人々との戦争を抽象的に語ることは易しいことです。自分の〈敵〉が、家族に愛された若い青年であって、自らの希望と夢にあふれた青年であったことを知ったとき、戦争というものを語るのは、そう簡単なことではなくなるのです。アール・ツヴィッキーは、その生涯のほとんどを、戦争の最中の、あの日の記憶と共に生きてきました。その記憶とは、彼の意識の底でずっと秘められ続けてきたものだったのです。アールは、生涯負い続けてきた痛みの記憶を、ようやく閉じることができたのです」

西原司祭がゼミの学生さんたちにこの話を紹介されると、みなさん目を真っ赤にして聞いていたそうで、西原司祭も一人ひとりの学生の顔を見ながら、絶句してしまわれたそうです。そして、大切な学生たちを二度と戦地に送り出すようなことのないようにと、固く心に誓われたのでした。

太平さんの旗です。


スティーヴン・A・カー牧師とご遺族です。


立教大学に展示されている太平さんの遺品です。


西原先生、このような貴重なお話を聴かせていただき、心から感謝いたします。
8月の平和宣教月間を前に、とても意義のある講演会でした。